「【3訂版】受ける?/受けない?予防接種」に入れられなかった副作用被害事例
2019年に刊行した「受ける?/受けない?予防接種」の大幅増補改訂版が2025年8月30日に完成予定です。
今回はコロナ禍を経て、大幅に変わった予防接種に対応するためページ数を増やしました。
初版での副作用被害事例、とりわけ子宮頸がん(HPV)ワクチンの被害者の声を大幅に削減せざるを得ませんでしたので、新版に載せられなかった事例をHPに掲載することにしました。ご参考にしていただけますと幸いです。
予防接種副作用被害者の声
四半世紀にわたり、多くの被害者が何重もの苦しみを乗りこえて声をあげてきました。けれども、残念ながら、これから予防接種を受ける/受けないを選択しようとしている、とくに保護者の方たちに十分この声が届いているかは疑問です。受ける/受けないを選択する前に被害の実態を知ってほしい──これは、ここに体験を綴ってくださった被害者の方々みんなの願いなのです。
事例1:DPT予防接種で重度の障害
2006年(平成18年)6月26日にAは産まれ、月齢通りに順調に発達。2006年12月16日にDPTを右腕に接種。2006年12月24日に入浴した際、DPT接種部位が肘まで腫れている事に気づき、左腕のBCGの接種部位までも発赤していました。黄色い泥状の下痢もしていました。
入浴後、仰向けに寝かしました。23時頃にベッドでうつ伏せになっていて鼻水と涎と泡が出た状態でいるAを発見。抱き上げると、汗で服がビチョビチョになり体が異常に熱く、呼吸が止まってしまいそうだと感じ救急車を呼びました。救急車要請の際に「子どもがすごい熱で、呼吸が止まってしまいそうだ」と説明し、濡れた服を脱がしている間に救急車が到着したので、裸のまま救急隊員にAを渡しました。病院に到着して処置をしている間に痙攣が重積してショック状態に。同時に一気に多臓器不全を起こしていったのです。
その後、病院に到着した時には熱がなかったという病院からの報告で“熱はなかった”と思い込んできたのですが、当時のことを思い返してみれば、やはり高い熱が出ていたし、救急車到達までの時間に汗でグッショリと濡れた服を着替えさたことを明確に覚えており不思議に感じました。(審査請求の際の資料として救急搬送時の電話記録等の当時の記録の取り寄せを試みましたが、電話の音声記録は保存期間2年、書面での記録は保存記録5年の為、入手できませんでした。)
命が助かるようにと祈りました。治れば元の姿に戻ると信じていました。しかし最重度の後遺症が残り、付いた診断は「何らかのウィルス感染による脳炎もしくは脳症」でした。医師にはDPTを8日前に接種して腕が腫れ上がっていることを言いましたが、三種混合はもともと腫れるワクチンだし、不活化ワクチンだから副反応は起こらないと言われました。「ワクチンそのものが悪さをした場合、接種後すぐから2、3日うちになる。その後免疫がつくられる頃に過剰に反応が出たとすれば2週間~3週間目。Aくんの8日目っていうのは中途半端だからそれはない」と言われました。そうなんだと当時は納得しました。
医師から退院前にDPTの2回目、3回目の接種を勧められました。変わり果てた息子の未来にも自分の未来にも希望を持てなくなっていた私は、DPTでまた痙攣が重積して死んでしまえばいいと思って承諾してしまいました。
時が経ち色んな思いを乗り越え、あの時生きててくれたことだけで十分だった。Aがいてくれるだけで充実した人生だと思えるようになっていました。だから原因なんてどうでもいいと思ってきました。
当初予防接種の健康被害について無知であったため、ワクチンで何かあったらその後のワクチンは打たないということも知りませんでしたし、子どもを守るための予防接種だと思って疑いませんでした。しかしワクチン接種による急性脳症の実態を知る程、ワクチンによる副反応ではなかったかという疑念が大きくなっていきました。
その頃カルテの保存期間が5年という事を知り2011年12月に市役所の健康増進課に相談に行き、予防接種の健康被害の救済申請を出す決意をしました。本当にウィルス感染だったのか?ワクチンの副反応ではなかったのか?それを健康被害の救済制度を利用して専門の先生方に検証してもらえると思ったのに、◯◯◯委員会の議事録では、結論が出ない議論の中で、ある委員の「6ヶ月だからそろそろ乳幼児突然死症候群を考えなきゃいけない年齢だと思う」の発言により、急に全体の意見がそのように流され、「乳幼児突然死症候群から救命しえたニアミス」と結論づけられました。
あの状態が乳幼児突然死症候群だなんて到底受け入れられないし、市の健康被害調査委員会の議事録や厚生労働省の審査分科会での議事録を取り寄せて内容を確認すると、益々不信と疑念を感じるものでした。
市の予防接種健康被害調査委員会でも、厚生労働省予防接種審議審査分科会でも、完全に否定するのは難しいと言いながら、否定する決定的なことは誰も言えないなか、突然死ということにされ、最終的に否認とされました。そもそもが市の健康被害調査委員会が出した、乳幼児突然死症候群という審議結論がベースになっており、厚生労働省の審査分科会の議事録では、審議の最後の方で「この件を認めるとワクチンで突然死まで起こるということになる訳になりますが」と確認をとって、否認ということでいいですねと結審されていました。
「不支給」という通知を受け取った後、ワクチン後に急性脳症を経験したお母さんに紹介された方に相談して、異議申し立ての手続き(審査請求)を知事に行なうことにしました。
この処分に対して、公平な立場でこの内容を精査判断するべき機関が県の立場なのに、県は厚労省が出した結論に対して、法律的な整合性を法務課の中で確認する作業しかしないで、実際に起こっている内容を精査すべき医療の専門家等に意見を聞くこともせずに結論を出そうとしているのではないかと、口述の際にはそのような内容を要望しました。県はこれまで一度も審査請求を受け付けた事がないらしく、文章の法的な有効性の有無だけで医学的に判断を見直さないで、形式的に処分に問題がないかだけをみて結論を出そうとしているのではないかと思われました。県は再審査機関なのでしっかり審査機能を果たし、被害をうけた県民の心情や立場に立って考えてもらいたいと要望しました。
少し前に新潟県知事が行なった審査では、医師や弁護士など専門家の意見を聞いた上で、国の判断を覆したということを知り、都道府県知事によって判断や対応に違いがあるのは不公平なことだと思いました。
市の予防接種健康被害調査委員会での内容、厚生労働省予防接種審議分科会の内容、私が出した意見書等の審査請求の内容、これら3つを精査して白木三(四)原則に従って本当にワクチンとの因果関係が否定されるのか?ということを、県に改めて考えてもらうよう、要望をしました。
その後2016年1月、県から不支給処分取り消しの裁決書が届きました。
不支給決定に至った審議の内容を知って、受け取ってしまった不信感と理不尽な苦い思いを、県がしっかりと向き合って鑑定結果を出して下さった事に感激し、家族一同心から感謝しました。重い後遺症と二次障害を負う子どもですが、地域のお友達に囲まれ、おばちゃん達に愛され、関わり合うことで心は豊かに成長し、我が家のかけがえのない存在です。子どものこれまでの人生とこれからの人生に、親として寄り添う事ができて幸せだというのが今の心境です。
(追補:2019.9.20聞き取り)
予防接種による障害一級認定後、新しい命にも恵まれ、充実した子育てをされています。
事例2:新型インフルエンザによる副作用発症事例
審査請求、再審査請求でも否認事例についての経緯
新型インフルエンザ接種後けいれん発作を起こし、接種8日目にてんかんとの診断をされた子どもが、治療のために通っているてんかん病院では、ワクチン接種後の脳症からの痙攣と診断されましたが、被害申請では再審査も含めて、インフルエンザワクチン接種により局在関連性てんかんを発症すると考えることは医学的に困難として否認されました。
S県内に在住(接種時はS市、現在はF市)で、12才になる女児(以下、A)が静岡てんかん神経医療センターにて入退院をくりかえしています。接種前は順調に成長していました。経過は以下の通りです。
接種後けいれん、救急搬送
接種前日、当日は、熱や風邪症状などは全くありませんでした。2010年(H22年)10月27日18時、A(当時7才8月)は新型インフルエンザワクチンを接種しました。接種後も食事を普通に取り就寝しました。10月28日深夜3時頃突然失禁(普段は夜尿などなし)しました。その時は、もうろう状態でありながらもAと会話ができ、また自分で下着の替えも自分でできました。その後、夜中ということもあり、また睡眠しました。
ところが、夜中の3時ごろ、「うーうー」とうめき声をだし、一点を凝視しました。両上肢屈曲強直間代するけいれんが15分位続き、その後 朦朧状態が続いたため救急車を呼び、静岡徳洲会病院に救急搬送されそのまま入院となりました。しかし、運ばれた病院(S病院)では、急性胃腸炎からの痙攣と診断されました。その時期は、地元の小学校で急性胃腸炎が流行っていたので、インフルエンザワクチンを打った事を病院側に伝えましたが、急性胃腸炎からの痙攣と診断されました。(けいれんによる嘔吐)強直発作あり。入院中は斜めに歩くなど直進できなくなりました。看護師は入院中の記録をしていませんでした。
10月30日に退院し、(毎日発作、一日2回発作。てんかん薬(テグレトール)を処方。薬を増やしても止まりません。11月2日の頭部CT検査では異常なしとされました。11月4日の頭部MRIでも異常なしとされましたが、脳波検査では発作波が認められ、この時点でてんかん(複雑部位発作)との診断がされました。(診断書はなし)*カルテあり
その後、毎日何回も痙攣する為、再検査し、てんかんと診断され、薬を内服するようになりましたが、日に日に悪くなる一方だったので、外来でS病院に通い、2011年(翌年4月4日(約半年後に)(独)国立病院機構 Sセンター(てんかんセンター)に転院しました。外来で、精密検査をしたところ、T先生がワクチン被害に詳しく、N先生と一緒に診療のあと、ワクチンとの関連性を疑い、4月3日の外来で「被害報告を出してください」と言ってくれましので、第一回目の申請を出した。4月11日の随液検査で脳症が見つかり、入院してステロイドパルス療法を行いました。1年後てんかんセンターの先生(I医師)に交代されましたが、I先生はワクチン接種後の脳症からの痙攣と診断しました。しかし、厚労省は急性期データがないので脳症とは断定できないとされました。
続くてんかん発作、高次機能障害
発病から4年9ヶ月経ち、ステロイドパルス療法の効きが良かったのか現在は、発作にならない限り、一応普通の生活ができるようになりましたが、一週間に数回、てんかん発作を未だ起こしています。軽度知的、学習の遅れ、広範性発達障害の診断をうけており、現在も入退院をくりかえしています。
現在は、発作は1週間に1、2回の部分発作が起きます。主に違和感としびれ。生理になると失禁などがあります。
厚労省のワクチン被害救済制度に出した経緯と結果
- 2011.5.20 厚労省に申請①(2011S病院医療費等10~12月107,400円、1~3月35,800円、4月35,800円)
- 2012.1.20 厚労省に申請②(てんかんセンター 5~7月105,400円、8~10月107,400円、11月33,800円)
- 2012.10.4 否認通知
- 2013.6.5頃 再申請(てんかんセンターI医師意見書、その後の経過)
- 2014.8.11 厚労省に再申請の結果を問い合わせ
- 2014.8.18 再審査結果 否認通知
という経過です。
2011年5月20日に申請書を提出し、2012年1月20日に追加資料を提出(疾病・障害認定審査会感染症・予防接種審査分科会の新型インフルエンザ(A/H1N1)予防接種健康被害調査部会)が、提出してから2年後(2012年10月4日)に否認の連絡がありました。
2013年6月ごろ再審査申請もしましたが(疾病・障害認定審査会感染症・予防接種審査分科会予防接種健康被害再審査部会)、2度目も否認でした。(審議会は2013年11月開催)
否認の理由は、初めの病院でカルテに脳症と書かれていない。例え脳症であったとしても、ワクチン接種後から脳症までの時間が短かすぎる。ということでした。
2012年(平成24年)10月4日の不認定結果の通知(厚生労働省発健1004第7号)によれば、接種後24時間以内にけいれん発作を始めて起こし、接種後8日目にてんかんと診断され、てんかん治療が開始。その後てんかん病院で局在関連性てんかんと診断。インフルエンザワクチン接種により局在関連性てんかんを発症すると考えることは医学的に困難です。[…]局在関連性てんかんが予防接種そのものによる副反応と考えるのは医学的に困難です。」というものでした。
2014年8月11日ごろ、再審査の結果について厚労省に問い合わせたところ、担当官から、「まだ審査順番が来ていないからもうしばらく待って欲しい」と言われました。しかし、催促の電話の約一週間後に、順番がまだと言われたのにもかかわらず否認の通知が来ました。2013年11月に再審査部会が開催されていたにもかかわらず、9か月も結果を知らせず、問い合わせた際順番がまだといいながら1週間もたたないうち否認の通知がきました。
同様にT県のMRワクチン被害者が2014年12月12日に審査会が認定との結論を出したものも2015年7月13日付での通知となっていることが判明しています。
再審査部会は、2013年(平成25年11月)に開催され、その時Aさんの再審査も行われていました。Aさんは、2015年7月23日に、再審査部会の議事録を請求しました(厚労省受付日2015年7月27日)が、8月26日にようやく開示決定通知がきました。(議事録の送付にはあらたに申出が必要です。)
認定非認定にかかわらず、結果の通知があまりにも遅いことは行政手続きとして怠慢としかいいようがありません。新型インフルエンザは今では季節性インフルエンザになりました。Aさんは新型が怖いということであわてて子どもに接種して被害にあったことを悔やんでいるといいます。新型インフルエンザ特別措置法が制定され、ワクチンが大量に輸入され、本来特定接種として選択的に接種がされるべきものが説明もなく接種されました。そのために被害にあった子どもは他にもいます。
事例3:子宮頸がんワクチンで被害:被害者の手記
私はN県立高校に通う高校2年生です。私がこのお話を受けたきっかけが、先月この場所で行われた薬害根絶デーに参加した事でした。
薬害根絶デーに参加して、私達の他にもこんなに苦しんでる人がいたことを知って、本当にびっくりしました。痛みで寝ることさえも困難な方、足が硬直して動けない方、体が全く動かない状態になった方や、みんなそれぞれ病名や症状は違うけど想ってきたこと、体験してきたことは一緒なんだなと、凄く共感でき、とても勇気づけられました。
中でも、余りにもの辛さに、家族に一緒に死にましょうと言われたり、死のうと思ったと言う方が多くいたので、この話を聞いた途端もう涙こらえる事ができず、会場で母とぽろぽろと泣いてしまったのを覚えています。
今、この子宮頸がんワクチンの病気と知らず戦っている人に知ってもらったり、このワクチンにかかって苦しんでる人や辛い思いをしてる人に少しでも勇気を与えられたらなという思いと、また「誤解」をときたいとの思いがあります。
この病気は複雑な症状を持っていて周囲に誤解される事が多く、「仮病」「サボり」と言われたり、ひどい人は「いじめ」を受けている人もいます。
私は、絶対にこんな事はあってはならないことだと思います。この先私達と同じ被害者が出てこないようにもっといろいろな方にワクチン被害の恐ろしさを知ってほしい。もっと世の中の人に伝えるべきだと思ます。
私は約4年前中学1年のときに子宮頸がんワクチンを三回打っています。この時の事は全く覚えていません。私は重い記憶障害があり、小学生や中学生の時の記憶はほとんど覚えていません。母から聞いた話ですが、初めてワクチンを打ってから、中学生の間はお腹が痛くなったり、腰が痛くなったり手が痺れ
たりと少しずつ症状が出ていたようですが全くワクチンの副作用とはわかりませんでした。
中学3年の冬の頃から突然朝起きられなくなり学校に行けなくなりました。卒業式も出られませんでした。母とこの頃は何度も喧嘩をしたようですが、私が「高校は絶対に休まずに行くから!」と、約束したそうです。しかし、高校に入って通えたのは二ヶ月だけ、本格的に症状が出はじめたのです。
朝は起きることが出来なくなり、熱が続き一日のほとんどが寝ている状態になりました。一気に症状が出はじめてひどい立ちくらみ、頭痛、手足の痺れ、吐き気、腰の激痛、関節痛、抜け毛、耳鳴り、そして足をひきずり階段が上がれなくなりこの頃から、住所を母が何度教えても言えなくなり過去の記憶を思い出せなくなりました。
痙攣、かなり激しい痛みを伴う硬直が起こり次から次へとわけのわからない症状が出はじめ、私は傘を杖がわりに、足をひきずりながら何カ所も母と病院を廻ったそうです。そしてやっと入院できる病院が見つかり私はそこから数ヶ月入院することになりました。
入院中のことはほとんどは覚えていませんが ほんとうに辛かったことは覚えています。
数ヶ月‥外に出ることも出来ず、ただただいつ来るかわからない全身の激痛に怯え、こらえる日々考えられますか?家族に会えるとしても週1、2回の数時間。今頃友達や学校の子は色んな所へ行って遊んでいるのだろうそれに比べて私は…何してんだろ周りの人はどんどんと退院して行くのに何でこんな場所、一人でいなきゃいけないのだろう・・そんな事を思って入院中は過ごしていました。
病状は悪化していき、寝たきりの状態になり人工呼吸器をつけるまでになってしまいました。この時の記憶は全く無く、今も自分で聞いていてびっくりするぐらい恐ろしい体験をしてきたんだと聞くたびに思います。
その時に家族とやり取りしていたメモがあります。そのメモには苦しいという言葉が何回も書いており中には死にたいとも書いていました。この後人工呼吸器を外すことになりましたがこの時の事は今でもうっすら覚えています。喉にすごくたんがつまって呼吸がなかなかできなくなり、苦しくて苦しくて頭が真っ白でした。
この病院を退院するときは片方の目がほとんど見えなくなっていました。そしてその後、症状はますますひどくなり失神痙攣を毎日のように繰り返し母も兄弟のことさえもわからなくなっていきました。
これは昨年の出来事です。
今年に入っても、入退院を繰り返しており、学校の普通に通えていませんが、それでも体調がいい日は少しづつですが、学校に通う事ができるようになってきました。
私が今学校で困っている事ですが、まず、私は上手に話す事ができません。長い文や難しい言葉は考えるのに時間がかかってしまい、紙や携帯でのやりとりがほとんどです。話を聞く事も苦手で、一言一言の単語が何を言ってるのかわからない事がしょっちゅうあり、何度も聞き返してしまうんです。
授業も聞いていても、一度にたくさんに話されるのでまったくわからずもう完全に右から左へ流れているかんじです。後で聞き返そうとメモをするけれど、それすらも覚えることが沢山でパンクしてしまい結局は毎回ほとんど聞けていません。聞くのも、一文覚えるだけで精一杯なんです。
友達と話すときも学校のできごとや、最近の話題の話をするのですが、友達の話すのが早くて、まったくついていけずほとんどあいずちをうってばかりです。
学校では視界がぼやけたり、かすんだりして黒板が見えづらいので普段は前の席にしてもらっています。それなのに、まだ黒板に書いてる字が見えない時があるんです!一番見える席に座らしてもらってるのにですよ?
他にもまだあります。授業中、頭がすごく痛くなったり、板書をしてる時、突然指先が痛くなり、少し触れただけで飛び跳ねるほどの痛みに襲われたり、後、授業でよく使う『図』を私は書くことができません。ひどい時は丸、四角さえもわかりません。漢字もつぶれてみえる事が多いので授業中、周りの友達に別の紙に一つ一つ丁寧に書いてもらってそれを見て写しています。
私達は学校ではみんなと同じようには過ごす事は出来ません!この病気は他にもほんとうにありえない事ばかり身に起こるのです。記憶障害、倦怠感、頭痛、全身の関節痛、免疫力低下、視力低下、筋力低下、月経異常、皮膚の湿疹、腹痛、目がまぶしい、目のかすみ、けいれん、まひ、過呼吸、吐き気、歩行困難、硬直、脱力、意識がなくなる、そして毎日とても疲れたり、頭がボーッとする、耳が聞こえにくい、そして友達の顔を忘れるなど、数えきれないほどの症状に悩まされています。
痛みと言ってもただの痛みではないんです。バットでたたかれるような痛みだったり、くぎで打たれるような痛みだったり、この痛みだけでも悩まされているのに、その上に又症状が次々出たりするんです。みんなが「「当たり前に出来る事」は、私達にとってはとても大変でとても苦痛なことなんです!それでも、私の周りにいる友達は私がわからないことを何回聞いても何度でも優しく答えてくれたり、私は歩くのも不自由なので、学校では、廊下や階段を歩くときは、いつも隣の席の人が手をつないで歩いてくれます。
これだけですごく安心して歩けるんです。私がこけそうな時は、後ろや前にもまわってくれてすぐ支えてくれるようにもしてくれるのです。友達がこうして支えてくれるから、そして、担任の先生や学年の先生が暖かく見守ってサポートしてくれているので、私は今、安心して学校に通えているんだと思います。
病院の話ですが、私は今、三重県伊勢市にある伊勢赤十字病院に通っています。電車で片道3時間以上かかります。そこで少し考えてみてください。私達は数10分同じ体制をしてるだけでも全身がちがちになって、ものすごい激痛に襲われるんです。そんなのが3時間も続くんです!往復で6時間以上ですよ?それを堪えながら向かってやっと着くんです。N県やO府にはワクチンの副作用をよくわかって診てくれる病院は一つもありません。
だから、こんなに辛い思いをして通っているんです。
今診てくれている先生は初めてワクチンの副作用と認めてくれてそして、とても暖かく受入れてくれました。とても優しい先生で私達のために一生懸命になってくれて本当にこのような姿に、私達は気持ちがすごく救われているんです。このような病院は関西には本当になかなかないのでもっと増えてほしい、受入れてほしいと強く思います!
そして記憶についですが、先日、母に中学生の卒業アルバムについていたDVDを見せてもらいました。そこには、私が中学生の時の、入学式、校外学習、体育祭や修学旅行などの写真が出てきて、皆とても楽しそうに笑ったりしていました。『思い出』という言葉が出てきており、こんな事が書かれていました。『みんなの真剣な顔と素敵な笑顔を残しておきたかった。私達はこの場所から素敵な思い出をたくさんもらいました。大好きな友達と笑いあったこと、励まし合ったこと。もちろんけんかもしたけれどそんな何気ない時間が今では私達の宝物です。
私達はこれから別々の道を歩んでいきます。でもこの場所でみんなといっしょに過ごした時間は一生忘れないでしょう。』
そのDVDを一緒に見ていた母は、私の横でボロボロに泣いていました。けど、私にはわかりません。母がなぜ泣いているのか私は、母から「皆、同級生よ!」と言われましたが、私には、他人の写真を見ているように見えました。
思い出とは何だろう?私には、”思い出”という言葉がよく分からないのです。母に「昔の事で覚えている事を話してほしい」と言われ、その時頭に浮かんだ事は、本当に小さい時のことでした。
私は以前はN県に住んでいました。子どもの頃はすごく活発で、公園をよく友達と走り回ったことや、冬は一面真っ白な雪に囲まれていて、そんな中で雪だるまを作って遊んだりした事長野県は星がとても綺麗で、母と弟と星座を探したりしたことがうっすらと思い浮かびました。
その時、楽しかったこと、嬉しかったことを少し振り返るだけでもすごく元気がもらえれる!
これが、思い出なのかな?と、その時、少しだけ分かる気がしました。
最後に、昨年書いた手紙を聞いて下さい。私は高校に入って間もない頃は、ほんとうに今思えば楽しかった。友達もでき、周りよりうまくはなかったけど、困ることなく話もできました。
その後、私が本格的に症状が出はじめた時、高校に入ってはじめてできた友達にさけられるようになりました。ほんとうにショックでした。
そこからすべてが変わったのです。私が行く場所すべてが地獄に見え、誰も信じることが出来なくなり、誰にも会いたくなくなりました。毎日のようにくる色々な症状におびえる恐怖、分かりますか?朝起きて、目が見えなくなっているんです。体が起き上がれなくなっているんです。手が動かなくなるんです。歩けなくなるんです。今まであたり前に出来ていた事が、出来なくなったら、どう思いますか?
もし家族にこのような症状が出る子がいたらどう感じますか?これらは、今私達が体験している事なのです。
病院も受入れてくれず、友達も分かってもらえず、家族にさえも「精神的なのじゃないか?サボりだ!」と言われ事もあり、もう何も信じられなくなった事もありました。
死にたいと思った事もありました。本当に本当に、毎日がつらかった!本当に苦しかった!助けてほしかった!
早く治してほしい。みんなとふつうの日々を過ごしたい、普通の高校生活を送りたい!
*後遺症の高次脳機能障害によ頭痛や吐き気、足の痛み等ハンス特有の症状も変わらず出たり消えたりしていますが、Mワクチンなどつかい以前に比べれば症状が全体的に抑える事が出来ているように思います。
(追補:2019.9.20聞き取りより)
事例4:子宮頸がんワクチンで被害:Mさんの母親
2012年娘中学1年生。子宮頸がんワクチンのパンフレットが学校から配られた。
保健センターからも案内の通知が届きました。テレビでも以前から、実際に子宮頸がんを経験した女優仁科亜季子さんが親娘で訴えかけるコマーシャルがしょっちゅう流れ、ニュースや報道でも、唯一癌が予防できる夢の様なワクチンとの報道に、凄いワクチンが出来たものだと喜んでおりました。
国が認可した訳だし、何の疑いもありませんでした。しかも自費ではためらうような高額なワクチンです。そのワクチンが指定期間内なら無料で受けれられるとの内容に何の迷いもなくそのワクチンを打たせました。
でもそれが悪夢の始まりになろうとは思いもしませんでした。
その副反応は接種後直ぐに出た訳ではなく、2回目を接種してから3ヶ月近く経ってから出始めたので、それが副反応だとは夢にも思いませんでした。
強烈な頭痛から始まり、腰痛、胸痛、腹痛、関節痛、吐き気、めまい、倦怠感、脱力、過眠、低血圧、体重減少、酷い口内炎、背中一面の湿疹、過呼吸、手の痙攣、複視…
以前の元気だった娘からは考えられないくらい次々と訳のわからない症状が襲ってきました。病院へ行っても異常は見当たらず、簡単に対症療法の薬が出されました。飲んでも効く訳がないし、その薬の副作用で余計調子が悪くなりました。
副作用が少ないとされている漢方ですら寝込んでしまう程でした。婦人科では自律神経のバランスの崩れだと言われ、精神薬を処方された事もありました。
その頃には娘は受験生になっていましたが、そんな状態で受験勉強なんてできる訳がありません。成績も下がる一方で学校から帰ると毎日寝込むようになり一体この子はどうなってしまったんだろう?毎日毎日原因のわからない恐怖との戦いでした。
そんな中、ネットでたまたま見つけた子宮頸がんワクチンの副作用の記事をどんどん掘り下げて読んでいくうち、娘と共通する症状の多さに愕然と力が抜け、ようやく見つかった原因に身体の震えが止まりませんでした。
これまでの訳のわからない数々の症状が一つの線で繋がりました。もう自分の身体じゃないみたい…頑張りたいけど頑張れない、痛い、力が入らない、何も出来ない、何もしたくない、自分では全くコントロール出来ないと毎日泣いている娘を見て一緒に死のうかと考えたくらいです。だって治療法が無いんですもの!こんな事ってあるでしょうか?
海外では既に多くの副反応被害が出てた事を隠して、あれだけ大々的に宣伝して、打たせるのが義務のように錯覚させて、打たせるだけ打たせておいてこれだけ多くの被害者が出ても、製薬会社は話すら聞こうとしません。
国もなかなか動いてくれません。治療の研究も一向に進みません。
裏では多額のお金が動いている事も知りました。
しかも此の期に及んで、効果は実証されている訳ではないというではないですか!
このワクチンは国民の健康を守る為に作られたものじゃなかったんですか!?
私達は一部の人間のお金儲けの道具に利用されただけなんでしょうか!?
人体実験ですか!?こんな事があっていいのでしょうか?
もう国も何も信じられなくなりました。
こんなワクチンを打たせてしまった私はこの子にどうやって償えばいいんでしょうか?
今も沢山の被害者の方々が想像を絶するような酷い症状に苦しんでいます。
その家族も本人以上に苦しんでいます。
どうかこの事実を多くの方々に知って頂き、一刻も早く未来ある少女達を救って下さい。
生きる希望を!将来の居場所を!
そして何より、ワクチンを接種する前の元気だった身体を返して欲しい!
どうかどうかよろしくお願いします!
(2016年2月追加)
PMDA救済申請につきましては被害者会の方でも再三連絡が来ており皆さん、悪戦苦闘しながら労力を注いでおられると思います。
しかし、うちの場合、娘が病院を転々としたのは中学生の時で私が住んでいる町では、中学生までは医療補助が出るために実質医療費は無料です。ですから申請が通る事はまず無いと思われます。それに今は自費治療の整体に通っているだけです。自費治療は申請の対象にはならないので、うちの場合闘うどころか、土俵にすら上がれない感じです。
うちの子の場合、効きもしない対症療法の薬を出してもらう事くらいしか病院でできることがないから自費治療に通っているのに、自費治療は救済の対象にならないのは腑に落ちません。
でもそういう方も沢山いらっしゃると思われます。
(追補:2019年9月20日聞き取り)
年々年を追う毎に症状が回復して、酷い生理痛だけは全く治りませんが毎日続いていた頭痛や目眩吐き気倦怠感等々が今ではほぼ治まり元気に大学にも通えています。周りにはなお後遺症に苦しんでいる人が多くいます。