もっと知りたいフッ素の話 61 なぜフッ素が?その2 フッ素と歯、そして原爆 要約
北海道で開業しているフッ素研究会の清水央雄さんによるフッ素研究17号(1997年)の「フッ素と歯、そして原爆」村上徹さんの訳文の要約です。
なぜフッ素が効果を確かめもせず、そして、安全性を捏造して応用が始まったのか、その理由がわかるものです。
⦅要約⦆ フッ素と歯と原爆
フッ素応用は北米における 1945 年の水道添加から始まったが、虫歯を減らすのが目的 ではなく、アルミニウム産業の廃棄物処理が目的という、企業の陰謀だった。さらにその 後、米国公衆衛生局はフッ素水道添加を推進したが、その理由は、フッ素ガスを垂れ流し て周辺住民に斑状歯被害を多発させていた製鉄や化学肥料等の企業を訴訟から守るため、 水道にフッ素を添加すれば斑状歯は水道のせいにできるし、その斑状歯は虫歯を減らすた めに容認してもらおうという算段であった。という大きな 2 つのフッ素推進の理由はかねてから知られていたが、40 年に渡って秘密にされていたもう一つの理由があった。
原爆の製造開発を訴訟から守って推進するのが目的であったのである。この国家機密が機密解除になり(すべてではない)、それをワシントンの公文書館等で読んだジャーナリスト(ジョエル・グリフィスとクリス・ブライソン)が 1 年以上かけて調査して記事にして世に知らしめたのが 1997 年で、非常にインパクトのあるスクープとなった。(環境雑誌・The Waste Not 414 1997 年 9 月号) 発表された記事は故村上徹先生が日本語に翻訳してフッ素研究 17 号(1997 年)で紹介したが、今回は読み易く要約した。なお、村上先生は原文に忠実に訳しているため、全般に 直訳で読みづらい文章だったが、今回は理解しやすいように適宜意訳に変更した。また、 村上先生の邦訳タイトルは「フッ素と歯、そして原爆」だったが、それも少し変えさせて いただいた。 (文責・清水央雄)
著者 ・ジョエル・グリフィス (ニューヨーク在住医学記者)
・クリス・ブライソン (コロンビア大学ジャーナリズム学部卒のジャーナリスト)
翻訳 村上 徹 (歯科医師 フッ素研究会会員 2020 年死没)
米国が水道にフッ素を添加してから 50 年ほどたったが、機密解除になった政府の公文 書によると、核兵器の開発において、フッ素は非常に密接に関係していることがわかった。
米国が世界で最初に原爆を製造して優位にたった第 2 次世界大戦以来、公衆衛生の指導 者たちは一貫してフッ素は安全であり、子どもの歯には良いものだと言い続けてきた。 しかし、その安全だという判断は、今回入手にした第 2 次大戦中の原爆の製造に関係した 当時のマンハッタン計画の機密文書を見てみると、大いに再検討しなければならない。 その機密文書によれば、フッ素は原爆製造のカギとなる物質であった。核兵器の製造に欠 かせないウランやプルトニウムの生産には、何百万ポンドものフッ素が不可欠であった。 このようにして、最も毒性が強い物質の一つであるフッ素は、米国の原爆の製造において、 労働者や工場付近の住民に健康被害をもたらす物質として急速にその姿を現してきた。 機密文書はこのことを明らかにしている。
さらに内幕をあばいてみよう。少量のフッ素は人間にとって安全だという説は、そもそも原爆計画の科学者らにより捏造されたのである。フッ素被害を受けた市民らが起こした 裁判において、国が有利になるような材料が欲しかったのである。そのためには人体実験 が必要だった。原爆計画の科学者たちは、1945~56 年にニューヨーク州ニューバーグ市で 実施された米国のもっとも大規模な水道フッ素化の人体実験のなかで主導的な役割を果た した。その後「F計画」という暗号で呼ばれている研究のなかで、彼らは州保健部の総力 をあげた協力の下にニューバーグ市民の血液や組織を集めて分析した。
1948 年にF計画の科学者の手でアメリカ歯科医師会雑誌に発表された報告書の極秘の原 文によると、フッ素による健康傷害の数々の事実が、米国原子エネルギー諮問委員会( U.S.Atomic Energy Commission)の手で検閲されていた事実がよくわかる。この委員会こそ、冷戦下における最も強力な国家機関だったのであり、その理由は国家の安全のためであった。
原爆計画のフッ素の安全性研究はロチェスター大学で行われたのであるが、そのロチェ スター大学こそ、冷戦時代に放射能人体実験をやった所として最も悪名が高い大学である。 その人体実験とは、何の関係もない入院患者に無断で中毒量の放射性プルトニウムを注射したというものである。このフッ素研究もそれと同一の考え方で実施したものであり、「国 家の安全」が至上命令であった。
人間が急速にフッ素に曝露されるようになったのは第 2 次世界大戦以後のことである が、これは何も、フッ素化された飲料水やフッ素入り歯磨剤だけによるのではなく、アル ミニウムから殺虫剤の生産に至るまでの大企業による環境汚染にも原因がある。フッ素は 危険な産業化学物質なのだ。その悪影響は端的に子どもの笑顔のなかに見て取れる。米国の非常に多数の若い人たちが、(ある都市では実に 80 パーセントにも達している)、歯牙 フッ素症にかかっており、米国研究協議会によれば、これこそ過剰フッ素の曝露の最初の 兆候なのだ。
フッ素は同時に骨に蓄積する。「歯は骨の窓ですよ」と、セントローレンス大学の化学 科のポール・コネット教授は説明している。小児科の骨の専門家は、米国の若者に骨折が 増加していることについて警告を鳴らしている。コネット教授や他の科学者は、1930 年 代以降の骨の傷害に関する研究から、その原因としてフッ素に関心を寄せている。
解禁された機密文書を読むと、事態はさらに緊迫してくる。というのも、我々のこの調 査によれば、少量のフッ素が子どもの骨にとって安全であるという証言は、原爆計画の科 学者が言い出したものだからなのだ。 「情報は隠蔽されている」と、ボストンにあるフォーサイス・デンタル・センターの元首 席毒物学者である、フィリス・マレニクス博士は言った。1990 年代の初めにフォーサイ スで行った博士らの動物実験では、フッ素は強力な中枢神経毒であり、たとえ少量であっ てもフッ素は人間の脳機能に有害だと判明した。(現在ではフッ素は IQ 低下を起こすこ とも判明している)マレニクス博士の研究は、十分査読が行われる科学雑誌に発表されて いる。マレニクス博士は、フッ素の人間の脳に対する作用の研究が、それまでアメリカで はほとんど実施されていなかったのを知って驚いたとか。その後、彼女は中枢神経研究に 対する研究費の助成を申請したが、国立衛生研究所(National Institutes of Health)によって 却下された。同研究所の評価委員らから、彼女はにべもなくこう言われたという。「フッ 素には中枢神経作用なんてありはしませんよ」。
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原爆計画の機密文書には、他にもこんなことが書かれている。1944 年 4 月 29 日のマンハッタン計画の提案書。「臨床的所見からみると、6 フッ化ウランにはかなり強い中枢神経的作用があるようである。ウラン以上にフッ素は強く作用する因子である」。
極秘のスタンプが押されたその提案書は、マンハッタン計画の医学部門の首席であるスタッフォード・ワレン大佐に提出された。「これらの成分を扱う仕事が不可欠な以上、これらに曝露されるとどんな心理状態が起こるかは、前もって知っておくことが必要である。 これは、特定の者を保護するということばかりではなく、取り乱した作業員が仕事をいい加減にし、そのために他人を傷害する事になるのを予防するという点からも重要である」。
同日、ワレン大佐はその研究計画を承認した。1944 年は第 2 次大戦が最も熾烈を極わめ、世界で最初に原爆を持とうとする国家間競争が最高潮に達した時でもあった。そんな重大な局面にフッ素の中枢神経研究が承認されたの考えると、提案書に書かれた臨床所見は、よほど重大なものだったに違いない。
しかしその臨床所見は米国国立公文書記録のファイルにはないのである。臨床所見は依然として機密扱いとなっているのだろう、と、公文書舘の職員に言われた。同様に、マンハッタン計画中で実施されたフッ素の中枢神経に関する研究の結果もファイルにはない。
この提案書を見たマレニクス博士は「びっくりしたなんてものじゃありません」「なぜ 衛生研は私に『フッ素には中枢神経に対する作用はない』などと言ったのでしょうか。こ んな文書がありながらですよ」。中枢神経に関するフッ素研究はマッハッタン計画の中で 実施したのは間違いないし、その結果は極秘にされたのだろう。政府は訴訟問題になるのを恐れたのだろう。
この中枢神経研究の提案書を書いた者は、H・C・ホッジ博士であった。彼はこの時期、 マッハッタン計画のロチェスター大学部門のフッ素の毒性研究の主任であった。
50年近くも後になって、マレニクス博士は、ボストンのフォーサイス歯科センターで、 物静かにゆっくりと歩く高齢な人物を紹介された。ホッジ博士だった。彼はこの時すでにフッ素の安全性に関する世界的権威者として名誉ある地位を確立していた。「しかし彼は、 私の相談に乗ってくれることになっていたのに、マンハッタン計画中の中枢神経研究には 一言も触れませんでした」。とマレニクス博士は語る。マレニクス博士の研究費の申請は科学評価グループによって却下されてしまった。
【フッ素と国家の安全】
こうした一連の文書は、1944 年から始まっているが、丁度この時期は、ニュージャージー州にあるデュポン社の化学工場の風下に深刻な公害事件が起こった時である。その工場では、マンハッタン計画のために何百万ポンドというフッ素を製造していたのであるが、 この事は世界で最初の原爆をつくり出すための超極秘事項なのであった。
工場の風下にある農場の作物は質が極めて良く、桃はアストリア・ホテルに直送され、 トマトはキャンベル・スープによって買い占められていた程である。しかし 1943 年の夏あたりから作物は枯れ出し、農民たちの言葉によれば「このあたりの桃は何かで焼き尽く されてしまったようになった」のであった。彼らは、雷雨が一晩中続いた後でアヒルが全 滅したことがあったとも言っている。ある農場の従業員は、その畑の産物を摘んで食べた ため翌日まで一晩中嘔吐で苦しんだ。馬は硬直して動けなくなり、牛は立っていられなくなり、腹ばいで動いていたという。この証言は、録音インタビューのテープで確認できた。 1946 年 3 月1日付のマンハッタン計画の秘密メモのなかで、ホッジはワレン大佐に宛てて「桃の被害」「野菜の異常なフッ素濃度」「住民の血中フッ素濃度の異常な上昇」「馬や牛の中毒」に言及しているが、マンハッタン計画と政府への配慮から、この件は公にされなかった。 ニュージャージーの農民らは戦争が終わるのを待ち、デュポン社と国をフッ素被害により提訴した。この訴訟はごくありふれた裁判のよう思われたが、じつは政府を震撼させたものであったことを極秘文書は明らかにしている。
マンハッタン計画の長であった L・R ・グルーブス大将の指示の下に、ワシントンで秘密会議が招集され、軍当局、マンハッタン計画当局、食品医薬品局、農務省、法務省、米国化学戦当局、エッジウッド兵器厰、基準局、デュポン社の弁護士など、多数の科学者や官僚が強制的に出席させられた。解禁されたこの会議の秘密メモを見ると、ニュージャージーの農民を裁判で負かすために、政府 が極秘裡に全勢力を動員したことが明らかである。マンハッタン計画に従事していたクー パー・B・ローデス中佐がグルーブス将軍にあてたメモで言明している所によれば、「これらの各部門は、ニュージャージーの桃園のオーナーによる訴訟に対抗して、政府の利益 を守るために法廷で使用される証拠を獲得するための科学的研究を行った」のである。
なぜ、ニュージャージーの農民の提訴が、国家の安全上の緊急事態なのか。1946 年に は、米国は原爆の製造に全勢力を傾注しはじめていたのだ。アメリカ以外の国はまだどこ も核兵器の実験を行ったところはなく、原爆はアメリカにとって戦後の国際社会での主導 権を確保するために極めて重要と考えられていたのである。ニュージャージーのフッ素訴 訟は、この戦略に対する深刻な障害となったのである。
「際限のない訴訟の亡霊が軍を悩ませていたのである」と、ランシング・レイモントは、 世間から喝采を浴びた「三位一体の日」という彼の本の中に書いている。彼はこの本で最 初の原爆実験を描いている。フッ素の場合に即していえば、「もし、農民が勝訴するよう なことがあれば、さらに次々と訴訟が起こり、そうなれば、フッ素を使用する原爆計画そのものを妨げることになりかねなかったのでしょう」と、ジャックリーン・キッテルは述べる。彼女はテネシー州の核問題に詳しい弁護士で(彼女は放射能の人体実験裁判で原告に名を連ねた)、解禁されたフッ素文書を調査した。彼女はさらにこう言う。「人体の傷 害に関する報告は、PR問題だけでなく莫大な和解費用を要することになるという点からも、 政府にとっては脅威となったでしょう」。
デュポン社にとっても、その地域の農産物のフッ素濃度が異常に高いことで食品医薬品局から通商停止になりかねないという危機に直面して、デュポン社はワシントンの食品医薬品局に直ちに弁護士を派遣して熱弁をふるった。「係争中のことがらに関して、もし、 食品医薬品局が何らかの行動をとるような事があれば、それはデュポン社にとって深刻な 影響を及ぼしましょうし、弊社と一般社会との関係も非常に悪化するのは間違いありません」。通商停止は起こらなかった。また、ニュージャージー地区におけるフッ素問題に関する新しい検査は、農務省ではなく、軍の化学戦当局が指揮をとることとなった。
一方、一般社会との関係は未解決のまま残された。その地方の市民らはフッ素でパニックに陥っていた。一般社会との関係に関する問題解決策を、ホッジはワレン大佐に次のよ うに書いている。「住民が抱いているフッ素に対する恐怖感をやわらげるために、フッ素について、ひょっとしたらフッ素は歯の健康には良いものだという趣旨の講演を企画して みたら如何がかと思います」。こんな講演はニュージャージー州ばかりでなく、冷戦時代 のアメリカでは至るところで行われた。
ニュージャージーの農民の訴訟は、戦争中にデュポン社がどれほどのフッ素を環境中に放出していたかを明らかにする事を政府が拒否したため困難を極めた。マンハッタン計画 の C・A・タニー二世少将は「それを明らかにすることは、米国の軍事上の安全に対して有害である」と書いている。この農民の子孫はまだこの地区に住んでいるが、この人たちに行ったインタビューによれば、農民らは経済的補償で和解するように懐柔されたという。
住民で骨や関節の病気で悩まされたジオルダーノ一家が受け取った和解金は 200 ドル (現在の日本円で 30 万円程度)だった。
【フッ素と冷戦】
フッ素の安全性に関する研究は、ロチェスター大学に委託された。ロチェスター大学医学部には原爆計画の関係者たちが出入りし、ワレン大佐もホッジ博士もいた。この軍部と医学の結婚は、奇っ怪な子どを産み落とした。プログラムFという暗号で呼ばれたロチェスター大学の極秘フッ素研究は、原子力計画の指導の下で原子力委員会出資の秘密施設をストロング記念病院に備えていた。冷戦下の最も悪名高い実験の一つである、無関係な入 院患者への中毒量の放射性プルトニウムの注射を行ったのもまさにここであった。この実験をあばいたアイリーン・ウエルサムは、それでピューリッツアー賞を受賞した。この事 件は 1995 年に大統領調査にまで発展し、被害者への和解金は数百万ドルになった。
プログラムFは歯について研究したのではなかった。まさしくそれは原爆計画に対する訴訟から生まれたものだ。その主目的は、政府や核の関係者らが、裁判において相手をうち負かすため、有利な情報を提供するところにあった。プログラムFの指導者は他ならぬ、ホッジその人であった。
プログラムFの目的は、1948 年の極秘文書でこう語られている。「数年前の果実の被害 訴訟に対して、政府が有利となるような証拠を供給すること。同地域の住民の血液中に過 剰なフッ素があったことが報告されている以上、我々の主な努力は、血液中のフッ素と毒 作用との関連性を記述することに注がれる」。つまりプログラムFの目的は、原爆計画への裁判に対して有利な反証を獲得するということである。
利害の核心がどこにあるかは明らかであった。もし、傷害を与えるフッ素の量の下限が 発見されたなら、(これはプログラムFの危険性ということに他ならない)、それは原爆 計画そのものを明らかにすることになり、健康を損なった罪で告発され、社会の抗議の対象となったであろう。キッテル弁護士の感想は「裁判を有利にするために企画された研究は、受け入れられるものでもないし、彼らは化学物質は何でも安全だと言いたがる偏向がある」だった。
フッ素が安全であるとする証明の多くは、このロチェスター大学のプログラムFの研究 にもとづいているのである。歯学部のスポークスマンであるウイリアム・H・ボーエン博 士によれば、戦争が終了したあとの一時期、この大学は、「フッ素の安全性」と「フッ素は虫歯を減らすのに有効だ」という科学的事項の指導的なセンターとして姿を現してきた。 これらの研究のカギをにぎる人物は、ホッジであった。ホッジは同時に、水道フッ素化の全国的な推進者となった。プログラムFの水道フッ素化に対する関心は、ホッジが以前に 書いたようなその地区の住民の恐怖心を打ち消すためという所などにあるのではなかった。原爆計画がプルトニウムの人体実験を必要としていたように、フッ素の人体実験が必 要だったのであり、水道にフッ素を添加することは、そのための機会を一つ設けることだ ったのである。
【原爆計画と水道フッ素化】
アメリカで最初に計画されたニューヨーク州ニューバーグ市の水道フッ素化実験に際して、原爆計画の科学者らは(これはよく知られていないことであるが)重要な役割を果た した。この実験では、フッ素の健康に対する影響についての広範囲な研究が行われ、少量 フッ素は子どもの骨に対して害がなく、歯には良いものだという多くの証拠が供給され ると考えられていた。
この計画は 1943 年に開始され、参考意見を求めるため、ニューヨーク州の保健特別委 員会を開いた。この特別委員会の議長はマンハッタン計画のフッ素毒性研究の主任である ホッジ博士であった。その他のメンバーには医学部門の長であったヘンリー・L・バーネ ットや、1944 年当時に、マンハッタン計画をつくりあげた国防総省外郭である科学研究 推進局(office of scientific Research and Development)にいた W・ハーティヒなどがいた。 こうした軍との結託は秘密にされた。ホッジは薬理学者として記載されており、バーネッ トは小児科医ということになっていた。ニューバーグ水道フッ素化の責任者になったのは、州保健部の歯科部門の主任であったデービッド・B・アストであった。アストはマンハッ タン計画の極秘のフッ素協議に参加し、後にホッジとともにニュージャージーのフッ素被 害事件に関する調査に加わった。
この特別委員会はニューバーグ市の水道フッ素化を推奨した。また、医学的研究も実施するとし、その実験に求められた最も重要な答えは「水道フッ素化が有効であるかどうかはともかく、このような低濃度のフッ素を長期間摂取することで、歯以外の組織や臓器に、果してフッ素が蓄積するのか」ということであった。これこそ原爆計画が探し求めていたキーとなる情報であり、冷戦を通じて長い間フッ素に晒されることになる労働者や地域住民の対策上必要なものであった。
1945 年、ニューバーグ市の水道はフッ素化され、その後 10年間住民は州保健当局によって研究されることとなる。それと連係してプログラムFは、原爆計画が探し求めていたキーとなる情報、住民の血液や組織に蓄積するフッ素の量に焦点をあてた独自の秘密研究を指導した。諮問委員会(advisory commitee) が言明したところによれば、「フッ素に害作用があるかどうかが核心であった」。州保健当局は全職員をあげて協力し、血液や胎盤などのサンプルをロチェスター大学に置かれたプログラムFの研究チームに運び込んだ。 これらのサンプルはニューバーグ水道フッ素化実験の小児科学的研究の主任である保健局 のデービッド・B・オバートン博士によって集められた。
ニューバーグ実験の最終報告書は 1956 年にアメリカ歯科医師会雑誌で発表されたが、 「低濃度のフッ素」はアメリカの市民にとって安全であると結論している。その生物学的証拠は「ロチェスター大学の原子エネルギー・プロジェクトで行われた研究に基づいてい る」と述べられているが、それこそはホッジが配給したものに他ならない。
今日になってみれば、原爆計画から派遣された科学者が秘密裡にニューバーグの水道フッ素化実験を実施し、市民からとった血液や組織のサンプルを研究したことなど簡単には 信じられないであろう。
「とてもショックです。言葉もないくらい」と言ったのは現在のニューバーグ市長であ るオードリー・キャレイである。キャレイ市長は、私たちが発見した上記の事について次のようにコメントした。「これはまるで、公衆衛生局がアラバマで梅毒患者に対して行ったタスキギー実験じゃありませんか」。
1950 年代のはじめにキャレイ市長がまだ子どもだった頃、彼女はニューバーグのブロ ードウェイにある暖炉のついた古い建物につれて行かれた。そこが公衆衛生の診療所であった。そこではニューバーグのフッ素化研究から派遣されて来た医師が、彼女の歯や生まれつき 2 本の指の骨が癒着した左手などを調べた。キャレイ市長は「今でも孫娘の上の歯 には白っぽい斑状歯があるのです」。キャレイ市長は政府に対してフッ素の秘密の歴史と、ニューバーグの水道フッ素化実験について回答を要求している。そして「私はこの問題は絶対に追及するつもりです。市民に知らせもせず、承諾も受けずに実験や研究をするなんて、ぞっとする話ではありませんか」と述べている。
ニューバーグの水道フッ素化実験の主任であったデービッド・B・アストは、マンハッ タン計画の科学者が関係していたことなど全く知らなかったと言い、次のように語った。 「もし、私がそんな事を知っていたなら、私は必ず、何と何とが結託し、何故そんなこと が行われるのかという事を調べていただろうと思います」。彼は「ニューバーグ市民の血液や胎盤がロチェスター大学の原爆計画の研究者のところに送られていた事を知っていたのではないのか」という質問に対しても「知らない」と答えた。1944 年1月に開催され た戦時下のマンハッタン計画の極秘のフッ素協議会に出席したことや、ホッジ博士と一緒に、秘密メモに記されているデュポン社の公害事件の調査のためにニュージャージーに行ったことなどを、彼は思い出しはしないのだろうか。しかし、彼はそんなことの記憶は全くないという。
ロチェスター大学メディカルセンターのスポークスマンであるボブ・レブは、ニューバ ーグからの血液や組織のサンプルが大学のホッジ博士のもとで研究されたことは確認している。原爆計画の訴訟に対して有利な情報を得るために、秘密裡に米国市民の研究を行ったということの倫理に関しては、彼は「それは我々には回答できない質問だ」。
私たちは原爆計画の科学者らが行ったフッ素の安全性研究の極秘オリジナル版を明らか にした。この研究は、後に検閲版が 1948 年 8 月にアメリカ歯科医師会雑誌で発表されて いる。この極秘版と検閲版とを比べてみると、原子力委員会は、フッ素が傷害を与えた情 報を検閲していたことが明らかにわかる。これは悲喜劇としか言いようがない。
それは原爆計画のなかで、フッ素の製造工場で作業していた労働者の歯科的医学的健状態についてマンハッタン計画の歯科医師チームが行った研究であった。極秘版では大部分の労働者に歯がないことが報告されているが、発表版では労働者には虫歯が少なかったということだけである。極秘版ではフッ素の発煙が靴のなかの爪をダメにしてしまうためゴム製の長靴を履かなければならなかったと報告されているが、発表版ではこのことは触れられていない。極秘版では、フッ素はおそらく歯に対しても同様に作用し、このために歯を失う者が多いのではないかと述べられているのに対して、発表版ではこの部分が省かれている。発表版の結論は「労働者は医学的歯科学的な観点から、類を見ないほど健康 であると判断された」というものである。
極秘版と検閲された発表版とを比較して見たあと、マレニクス博士は「私は科学者であ ることを恥しく思う」とコメントした。そして、冷戦時代に行われたフッ素の安全性に関 する研究は「みんなこんなふうにやられたのでしょうか」と疑問を投げかけた。
【訳者あとがき】
雑誌には掲載されてないが、原文には 155 ページもの膨大な証拠書類が添付されていて、ウェイスト・ノット誌に発注すれば 20 ドルで入手可能である。(wastenot@northnet.org) フッ素論争の歴史的文献をじっくり検討してみると、日本人にはどうしても納得できない事項が幾つか浮かびあがってくる。そのうちの一つは、虫歯の予防などといういう保健 上あまり緊急ではない施策が、国際政治が急迫した第 2 次世界大戦の時代に、なぜ、アメリカで、あれほどまでの国家の肩入れの下に「水道フッ素化」となって実施されたのかということである。そしてもう一つは、戦後の冷戦の時代に、なぜアメリカ政府は、WHO やアメリカ歯科医師会を操って、あれほどまでの知的暴虐や人権侵害を行ってまでウォルドボット博士らの臨床データを抹殺しようとしたのかということである。 フッ素の批判者には周知のことであるが、アメリカの医学や歯学の世界でフッ素反対者に投げつけられる悪罵,中傷、言論弾圧、様々な嫌がらせは、自由を標榜するアメリカで、 しかも、虫歯予防の一手法などをめぐって、何故こんな陰険な仕打ちが行なわれるのか、どう考えても理解できない 。
しかしこれは、フッ素がアメリカ軍部の虎の尻尾であると 分かってみれば理解できよう。虫歯予防に使用されるフッ素の安全性が「原爆製造のマ ンハッタン計画を裁判から守るために案出されたなどと、一体、誰に想像できただろう。 まさに、事実は小説よりも怪奇である。そして、フッ素に関しては、世界的権威者で通っているホッジやディーンが、深くその極秘計画に関与していたことなど、著者らが丹念に収集した証拠書類がなければ、おそらく誰一人信用しないに違いない。
しかし、本稿を読 めばフッ素の安全性などは「放ったらかしにされた」どころか初めから意図的に捏造されたものであり、政府各機関も総力をあげてこれに加担してきたことが明らかである。その目的は、原爆という最高の国家機密をあくまで護持するためであった。当時アメリカに おいてフッ素中毒に関する最高の治療者であったウォルドボット博士の幾多の臨床的デー タを、保健行政当局らがやっきになって否定し、手先をつとめるアメリカ歯科医師会に機関誌で人格攻撃まで行わせて博士を封殺しようとした理由はまさにここにあったのであろ う。この壮大なドキュメントの前には、一介の歯科医師にすぎぬ私は、ただ言葉を失うだけである。政治と科学、官僚と科学などについて、この記事から派生してくる深刻な事象はおそらく山のようにある筈であるが、今、私がそんな事についてあれこれ口走ってみて も、確かな意味などとても出てくるまい、そんな気がしてならない。
フッ素問題に人生をかけて行政と対決しているジョン・イアムイアニス博士は、この点 に関して「科学は死滅した」と断言し、故ジョージ・ウォルドボット博士は、フッ素に関する行政を「汚辱にまみれた歴史」と痛憤した。アメリカ化学学会の論文は、数ある環境汚染物質のうちフッ素だけが何故か政府によって特別扱いにされている実態を指摘した が、今にして思えばじつに慧眼といわざるを得ない。
フッ素の安全性を世界中に力説してまわったホッジもディーンも、所詮は国家権力に奉仕して自己保存を計る官僚であり、人間に奉仕する科学者などではなかったのだ。科学的 真実など、政治の前ではどうにでも曲げてみせる人間にすぎなかったのである。
【訳者による脚注】
なぜフッ素が原爆の製造と関係するのか、簡単に解説すると、天然ウランは殆どが U238であるが、0.7%の割合で同位体の U235 が存在する。核分裂に利用できるのはこの U235 だけである。従って多量の U235 を取り出すためには、この 0.7%の割合を化学的操作で濃縮する必要がある。このために考案されたのが、ウランをフッ化水素と化合させて気体 の 6 フッ化ウランにし、比重の差を利用して U235 を U238 と分離する方法である。この 方法はニールス・ボーアでさえ「合衆国を一つの巨大な工場にしてしまわないかぎり無理だ」と思っていたというが、原爆の製造に関与した多くの天才的頭脳がこれを可能にした。 広島に投下された原爆の U235 の総量は 64kg であった。
ちなみに U235 を分離した残りカスの U238 は、当面何の利用価値もないまま廃棄物と して膨大な量が放置されていたが、固くて重い性質に着目され、最近になって無料で企業 に払下げられ、金属に精錬されて砲弾や戦車の装甲に使用されるようになった。これが湾 岸戦争で使われて有名になった劣化ウランである。厄介なことにこの劣化ウランには、余り強くはないものの放射能があり、その半減期は何と45 億年である。湾岸戦争がもう一つの核戦争と言われ、アメリカの知識人らが問題にしたところだが、わが国でこの実体が あまり知られていないのはフッ素問題と同じであろう。