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母里啓子さんへの追悼文 その6 母里さんとの30年〜戦後民主主義を感染症の世界で問い続けた母なる冒険者

母里さんとの30年〜戦後民主主義を感染症の世界で問い続けた母なる冒険者

母里さんとの出会い

1992年の秋、MMRワクチンでの無菌性髄膜炎の多発が問題となっていた時、厚木ネットワークの尽力によりワクチントーク厚木集会が開催されました。ワクチントーク全国は静岡で種痘ワクチン被害者の親である藁科勝次さんと小児科医の毛利子来さん、2種混合ワクチンの被害者の親で、予防接種情報センターの藤井俊介さん(2021年7月逝去)の3人が、子どもの予防接種による被害を防ぐための市民組織を作ろうとして「予防接種国民会議」ではネーミングが固すぎるとして「子どものためのワクチントーク」として立ち上げ、静岡、東京と集会活動を行う中、厚木での開催がされたものでした。

ワクチントーク厚木には藤井俊介さんと小児科医の黒部信一さん、母里啓子さん(当時保健所所長)が講師として呼ばれていました。ワクチントーク厚木では「予防接種110番」を開催しました。堰を切ったようなお母さんたちの疑問や被害の声。

その後子どもだけでないワクチン被害全体の情報を発信するために「ワクチントーク全国」は活動を続けてきました。どこかの代表になったり活動の旗を振ったりするのは性に合わないと言っていた母里さんですが、いつだったかのワクチントーク集会で(青野さんと私の陰謀により)代表として紹介され、その後ワクチントークの代表にされてしまいました。「青野さんと古賀さんがいる限りワクチントークに関わるわ」と言って、今日まで、コンシューマネットと二人三脚で行政交渉、議員への質問主意書提出、各地での学習会、年1回の集会、被害者への面接や相談、被害者団体の集会参加、本の出版をおこなってきました。審査請求は主に薬害団体とも近しいMMR被害児を救援する会栗原敦さんがノウハウを構築し、ワクチントーク全国と共に地道な活動を続けてきました。北海道に日本脳炎ワクチン導入が議論されたとき母里さんと一緒に北海道での学習会や道への申し入れをしたことが昨日のことのように思い起こされます。その時母里さんが言った言葉「頑張らないと。北から攻めあがろう」・・残念ながら行政から予防接種慎重派は排除され、VPDの考えが主流となる中、子どもへのワクチンは増え続け、同時接種死亡も原因究明が曖昧にされたまま複数接種がノーマルになっているのが現状です。

こんなものではないし、マニュアル本なんて大嫌い

私の母里さんへに最初のイメージはあまり良いものではありませんでした。1993年ごろ、4大訴訟が終結しMMR訴訟が始まった頃、予防接種には副作用があり、被害救済が容易ではないこと。国が進める予防接種で被害が起きることについての情報をもっと保護者に伝える必要があるのではないかと、予防接種の本を作ることを思い立ちました。「うけますか?予防接種」というブックレットですが、執筆を青野さんと分担し、黒部信一医師のチェックを入れたいただいたものです。推進の有無を問わず当時予防接種に関する本は市井にはほとんどありませんでした。手探り状態で書き上げた原稿を、黒部さんに「母里さんにみてもらった方が良い」とアドバイスをいただき、当時瀬谷保健所長をされていた母里さんを訪ねました。

当時の母里さんには独特のオーラがあり、私の原稿を一瞥するや机の上に放り投げ、「私こういうの嫌いなの。予防接種のQAとか言っても答えなどない。この被害者の積み重ねを読んで」と机の上にあった積み上げられた4大訴訟の記録を指し示しました。意気消沈して帰る私は4大訴訟のリストは見たものの、内容までは読み込めず、それからできる限りの予防接種の既刊本を見て本を修正しました。被害事例としてMMR訴訟をしていた3名の家族のうち2名に方に取材をし、その後大阪での裁判の傍聴に通いました。母里さんによれば、MMR事件を最初に報道したNHKの当時の記者はHPVワクチン薬害・東京支援代表の隈本邦彦さんでした。その情報元は母里さんでした。また私と同じように4大裁判の記録を見なさいと言われたのがエイズ裁判を手がけ、HPV薬害訴訟東京弁護団の共同代表の水口真寿美さんでした。しかし母里さん自身は、水口さんや私にそう言ったことの記憶は全くないと言っており、後日何度もこの話が出るたびに私に謝ってくれました。私の本棚には母里さんからもらった東京予防接種裁判上下巻と薬害エイズの記録の本があります。何度も処分しようと思いながら私にいつまでも付き纏っています。これを母里さんに返せなくなった今、本が大好きだった母里さんが残された貴重な本で母里文庫が作れないか今模索しているところです。

MMRワクチン、HPVワクチン被害と行政の対応がコロナに問うもの

MMRワクチンは、1989年、それまで効果があまり評価されてこなかったおたふくかぜワクチンを、はしかと風しんとの混合ワクチンとして夢のワクチン「新三種混合ワクチン」として導入されたものでした。当時インフルエンザワクチン接種が学校でのボイコット運動で接種率が激減する中で新たなる「ドル箱」として期待された背景もあり、国は失地回復とばかり過剰な宣伝を行って実施したものでした。しかし、前橋医師会の報告を始め導入前から無菌性髄膜炎の多発が言われており、導入後も高率の副反応の発生が問題となり、発生率の報道も混乱するなか、当初の義務接種から同意書を取っての接種と接種勧奨が弱められていきました。死亡と重篤な後遺症を負った3家族が大阪地裁へ提訴をしました。その時意見書を書いたのが母里さんです。(注)カナダでの研究経験がある母里さんへカナダ当局からの問合せに対して母里さんが送った1枚の副反応ファックスにより、即刻中止したカナダに対して、3年余にわたり手を替え品を替え、訴訟で問われ続け、ようやく接種中断をして今に至るのがMMRワクチンです。(詳細は母里啓子さん追悼文3 栗原さんの資料ファイル参照)

副反応について行政が向き合わない体質はコロナの今も変わりません。そして何よりも子宮頸がんワクチン(HPVV)での最大の予防接種禍を生み出してしまった体質に受け継がれています。被害の氷山の一角である集団訴訟に苦しむ原告の訴えは報道されず、コロナに紛れて9価ワクチンが認可され、2011年6月以来の積極的勧奨中止がついこの間撤回されました。定期接種でありながら数%の接種率の中生きながらえてきた子宮頸がんワクチン。途中でがん予防効果はうたえないとしてHPVワクチンと言い換えられたこのワクチンによる被害者は認定されず裁判で戦い、裁判すらできない氷面化の多くの犠牲が顧みられないでいるのです。水俣、薬害・食品公害、薬害エイズ、ライ予防法被害、差別と切り捨ての歴史。歴史を振り返る限り、日本ではコロナワクチンでは副反応被害は救済されずこれから3回接種や子どもへの接種が同調圧力下で進められる。「今おかしいと言わないでこの流れはもう止められない」直近で母里さんはいつも口癖のように嘆いていました。

コロナ禍でのタネまき会

母里さんはウイルス研究者、実務家、保健所所長、老健施設長を経て、13年前に最愛のお連合いをなくされてからはワクチントーク代表として、青野典子さんや私と3人4脚で予防接種問題に取り組んで来ました。名著「インフルエンザワクチンは打たないで」以後は双葉社で戸塚美奈さんという編集者を得て他に類のないワクチン問題の本質に迫る本を上梓して多くの悩める養護教員や保護者に啓示を与えました。コンシューマネット・ジャパンを立ち上げた時も理事として参加。コロナが問題となり始めた2年前、なんとか感染症への対応をウオッチして少しでも多くの人に伝えようと2020年6月からタネまき会として直近では10月6日に最後となるzoomでの学習会をしてきました。タネまき会で若い人が参加してくれるのを本当に喜んでいました。

歴史は忘却により作られる

母里さんとタネまき会を続ける中で、いつも感じたのは、なぜ人類は同じ過ちを繰り返すのか。戦争も原発事故も自然災害への備えも、天災というよりは人災であるということです。コロナが始まり「ワクチンさえできれば」の大合唱の中で、わたしたちが一番に思ったのは、コロナによるこれから起きるであろう多様な人権侵害。とりわけ感染症対策としての人権統制とワクチン信仰による副作用被害の矮小化でした。

日本でのインフルエンザ対策は高齢者を守るためとして最終的には学童防波堤論により、子どもたちへの強制接種が長きに渡り行われました。タネまき会に参加された方の中には今現在子育て中の方もいましたが、これまでの予防接種禍被害救済に関わった方、被害者の方、インフルエンザ予防接種に反対した学校関係者の方もいました。コロナで予防接種行政が50年前に戻ってしまう。そんな嘆きの声の中で改めてインフルエンザワクチンの集団接種やワクチン行政に政賢を与えた「前橋データ」の持つ意味を、コロナワクチンの子どもへの接種を論じる際に見直すべきだというのが私たちの一致した意見でした。

前橋データはワクチントークおしゃべり会に参加し、カンガエルーネットを作った應家さん坂本さんらによりHPで見ることができます。母里さんはこのサイトを本当に喜んでいました。http://www.kangaeroo.net/D-maebashi.html

母里さんの生きた時代と生き方

1934年(昭和9年)生まれ、終戦前日までの教科書を自身の手で黒塗りにさせられ、戦後民主主義の混乱の中での60年安保闘争の中で医学教育をうけた母里さんは、あえて反骨の研究者に師事し、吉原賢二さんの「私憤から公憤へ」に触発されて以降、前橋データ作成や4大訴訟のデータ作りをし、被害者救済に大きな役割を果たしてきました。

1998日本応用心理学会大会の公開シンポ「予防接種被害と応用心理学」(企画、司会は田中真介さん)で、研究者の立場から母里さん、被害者運動の立場から藤井俊介さんそして若手の臨床医にしてEBMの研究者として山本英彦医師の報告がありました。それまでワクチントーク全国の活動にアドバイス的に関わったくれた母里さんは、ここで、山本英彦医師と知り合い、厚労省のヒヤリングに山本医師を推薦しました。インフルエンザワクチンの問題を医学的科学的に論証することを母里さんを中心にワクチントークの活動は取り入れ、また、制度的問題や法的な提言は私が補完するという形が作られました。毛利子来さんが「専門的すぎる。市民運動としての枠を超える」と批判されましたが、私たちの提言行動は強くなっていきました。インフルエンザワクチンの高齢者への定期接種(当時は二類型、現在はB類型)を2度廃案にしたことを「ささやかな戦果」と言っていました。 

本を書くのは嫌いと言っていた母里さんは、ジャパンマシニスト社から双葉社へ出版を移し、戸塚美奈さんというライターを得て「インフルエンザワクチンは打たないで!」を上梓されました。母里さんの運動者としての活躍は2008年12月26日に最愛の夫を無くされてから本格化しました。それまでは運動にはどちらかというと消極的であった母里さんは、私たちの本や双葉社からの出版を通じて、ワクチン問題を受ける立場から語れる市井の学者としての権威的な存在となっていきました。懐深い人柄で、自身の関係者だけでなく新しい研究者や医療関係者との輪も広げていきました。

その一方でピースボートの船に年複数回乗り、そこでも多くの友人を得て、下船後も活躍の場を広げ、Facebookを駆使して若いお母さんを虜にするなど、昭和、平成、令和を高齢になってなお先駆者として駆け抜けた人生は他の誰も真似できない生き方として後世に語り継がれるべきでしょう。誕生日に600人超える人から誕生祝いメッセージをもらったと喜んでいた母里さん。都会生まれで故郷がない分、世界中どこにでも行きたがり友を作っていた母里さん。ふるさとの歌の3番の立身出世の歌詞は嫌いだと言っていた母里さん。人はいくつになっても老いることなく冒険できることを身をもって教えてくれた母里さん。好奇心旺盛で何事にも前向き、鷹揚にして世話好き。4年後までのピースボートの申し込みをし、コロナ禍でも利尻・礼文や屋久島への旅行をする母里さん。70歳過ぎてバンジージャンプに挑戦したり、イベントや運動での年齢制限を悔しがってた母里さん。食いしん坊でユーモアたっぷりで老いることを知らない「神」のように感じていた私にとって、10月12日からの4日間の最後の旅は一生忘れられないものとなりました。死んでも生き続けるベニクラゲを加茂水族館で見たがった母里さん。11月にも講演や奈良旅行を入れていた母里さん。コロナで旅行制限がなくなることを何よりも楽しみにしていた母里さん。87歳という年齢はまだまだ母里さんにとっては通過点だったはずです。

コロナ後の世界を憂う一方、コロナ政策で目覚めた人が増えたことに希望を持っていた母里さん。予防接種という1つのテーマを追い続けて最後に出てきたコロナ。最後の4日間を一緒に過ごした母里さんの最後の言葉や表情を想い起こしてまだまだ夜中に目覚めることがあります。

生きることの意味、死ぬ前にしておくべきことは?死ぬ直前まで元気そのものだった母里さんの急逝を目の当たりにし、人は必ず死ぬ、そしてその瞬間を誰も予測することはできないことを知った衝撃は、俗な言葉ですが、「無常」というしかありません。毎日「あのコロナ政策はおかしい。テレビの発言はまちがっている」と言い合った日々はもう帰ってこないのです。恵まれた日々を失ったことではじめて気がついた母里さんへの限りない感謝の気持ち。年齢を超え、経験を共にできたことで得た多くのものを曲がりなりにも次世代に伝えたい。コロナ政策や報道の何がおかしいか、これからどう再生すべきなのか。母里さんが残された多くの仲間を募りながら生きていきたいと思います。

(古賀 真子)

 

(注)詳細は栗原さんの追悼文に資料があります。

MMRワクチン薬害事件 新三種混合ワクチンの軌跡(2007.7MMR薬害事件弁護団 編)より母里啓子氏の意見書 第一審

 

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